こんばんは。
resありがとうございます。
パリの「観光編」は週末忙しくって手付かずでした・・・そのうちに。
さて、最近のぼくの状況報告です。
左下肢痛に悩まされてからほぼ10年になります。めでたくない10周年です。
最近はというと、生活にはまったく問題がありません。
完治した?・・でも時折「訳あり筋」は痛みます。
これは以前もそうでしたが、自分の意図としない、あるいは好まないという条件下での、立ち尽くめとか、歩きずくめで始まるのです。
左の中臀部、左下肢のひらめ筋の痛み、左足甲の痺れとかでで、10年間ポイントは同じです。
でも、痛み出してもなんとか持続させないでクリアできる� �うになったのです。
このところ多忙を極め、ストレス状態で、痛みがちくちく出ていたので、今回のパリ行きも心配でした。
この「心配」がまず良くなかった。案の定、初日に激痛が来た・・・でも何とか↑のようにクリアしました。
アクティブな発熱
だから>治ってよかったですね>なのかどうか自分でもわかりません。
「治る」というのは、どこか悪くって、医科学的に治療をする、あるいは自然治癒力で治る・・ということなのだろうが、僕の場合はそういう意味では治ってはいないのかもしれません。
確かに、TPB、マッサージ、ストレッチ、プール、抗不安・欝剤・・・効果があり、痛みを低減させてきましたが、これもぼくにとっては、ひとつの通過点であったのかもしれません。
闘病記に書いたように、一番は、自分自身との闘いでした。
現在はもう治療的行為は一切やっていないのです。パリでの激痛のときも鎮痛剤を服用したわけでも、マッサージをしたわけでもないのです。
嘔吐を停止する方法
僕の闘病記に「耳鳴りから学ぶ」という章があります。
今でも耳鳴りは酷い状態です。 ぼくの耳の中に蝉が住み着いて4年になります。
耳鳴りは気にしだすと、物事に集中できなくなり、他の音も埋もれて行きます。
「耳鳴りなんか、気にしない、気にしない」と意図的に無視するのはダメで、すればするほど酷くなります。
「無視する」という意図的行為ではなく、「無意識」になる、自然と忘れてゆく・・・うまく表現できないのですが・・・ほかの事に集中してゆくと、耳鳴りは去ってゆくのです。
視力障害フォーラム
痛みのケースもまったく同じでした。痛い痛いとさするのは論外でして、では、「痛いの痛いの飛んでゆけ」「痛くないはずだあー」と念ずることもダメなのであります。痛みを意識すること自体がダメなようです。 「無意識」になることが大事なようです。
なんだか難しいですねえ。でも、無我の境地、ホトケの境地になれってことではないです。
ごく簡単言えば「痛いのなんかほっといて、他のことやろうぜえ!」「痛くっても、どんどん次へ行こうぜえ!」って、とこでしょうかね。
負けちゃあ駄目ってことなのです。
僕がMPSだったのは、すでに随分前のことだったのかもしれないと最近では思っています。
通常はなんでもないけれど、痛み� �時折やってくる・・・やっぱり、僕の痛みは脳に記憶されたものなのだろうか?
脳の痛みの記憶はいまだにリセットされていないと考えたほうが妥当な気がします。
人間の記憶は、特に鮮烈なやつは死ぬまで消えないのです。
ボケ老人でもなって記憶がトンでしまえば別なんだろうがvv・・・。
前記のようなトリガがかかると、条件反射的に痛みのデータがメモリから引き出されて、それを脳が実行しようとするのだが、それを無意識のうちに阻止している、あるいは実行進路をバイパスさせることが出来るようになった・・・というのが今の自分の状況でないのかな?と考えている。
だから、完治した、というより、いまだに痛みと闘っている、対処が上手くなった・・・というほうが正解なような気がします。
今回のパリでの激痛クリアで、また再認識した次第です。
この辺のところは近年随分研究されているようで、この前TV の放映で観たが、まあ、全ては仮説なのでしょう。ぼくも医者でも研究者でもないから、何も分かりませんが、自身の体験と数人の類似患者のからの体験から感じていることであります。
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